橘玲氏の考える新しい日本人論について述べた内容。2012年の著作です。
橘氏によれば、日本人は、「世間(ムラ社会)」ではなく「世俗(神を信じずに功利的に生きる)」にあり、合理的な考え方を好む民族とのこと。
いつものように具体的なデータを示しつつ、西欧社会が作った日本人のイメージを覆す内容で、目から鱗が落ちるような想いでした。
そういえば、日本では西欧が発端の「民主主義」が根付かないのも、責任の所在が不透明な社会と言われるのも、突出した「功利主義」で、上手にごまかす術を身につけてきているからかも知れません。
以下、いつものように気になった箇所を抜粋しておきます。
- 日本の社会は、「空気」と「水」をいうふたつの相反する原理で動いている。もちろんこれはどんな社会にもいえることだが、あえて「日本人の特徴」を挙げるとすれば、さまざまな価値観調査から明らかなように、その世俗性がきわめて強いことだ。
- 「ムラ社会」型全員一致方式では、もはや重要なことはなにひとつ決められない。
- 「無垢な民衆は為政者に騙されて愚かな戦争に駆り出された」「昭和天皇もただの軍部の傀儡で責任はなかった」という「戦後史観」が新生日本の公式見解となった。
- 自己責任をとれない社会には致命的な弱点がある。組織のなかに統治(ガナバンス)構造を作ることができないのだ。
- 日本は憲法の上では三権分立だが、実際は省庁が行政権ばかりか立法権と司法権を有し、予算の編成権まで持っている。さらには、各省庁は法によらない通達によって規制の網をかけ、許認可で規制に穴を開けることで業界に影響力を及ぼし、天下り先を確保している。
- しかし現在のように、政治や行政から会社、学校に至るまでほとんどの組織が「日系日本人」で構成されているかぎりは、”グローバル”になる理由はどこにもない。
- 圧倒的な<他者>がいなければ社会はグローバル空間にはならず、ひとびとはローカルルールにしがみつこうとする。これが、日本社会がなかなか変われない理由だ。
- 「世間」の拘束が強いのは、そうしなければ人々をひとつの共同体にまとめておけないほど日本人が「個人主義的」だからなのだ。
- 日本人はむかしから、「世間」が大嫌いだった。だからこそ、「お上」に面従腹背しつつ、個人の欲望を抑圧する「権威」を激しく嫌悪したのだ。
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