私もまぁ言ってみれば、かなりの「頑固ジジイ」の部類かと思うのですが、できるだけ「思い込み」で判断しないようには気をつけています。
一度身についてしまった「思い込み」や「常識」は、なかなか取り除くことは難しい。
というのは、「思い込み」や(間違った)「常識」を否定するには、何らか「気づき」つまり「新発見」をしないといけないからです。
そして、何か「気づき」を得るということは、それまでの「無知」だったことを認めることになります。
「いやぁ、また一つ、賢くなったわ。ラッキー!」
はい、全く間違えてないですよね。
自分を成長させるために、何かの行動をして、新たな知識や気づきを得て、それまでの無知を認識することで、新しい視点が得られる。
はい、とても素晴らしいことだと思います。
それでは、もしこれまでの無知な状態の自分がしてきたことが、とんでもなく誰かを不幸にしていたとしたら?
例えば、自分が良いと思っていて他人の紹介していた商品が、実はかなり健康に良くなかったり、むしろ不幸にすることが後から分かった。
しかも、他人から言われたのではなく、自ら学んでいたら、自らの間違いに気づいた。(OMG!)
こういう場合は、どう捉えたら良いのでしょう?
やはり「知らぬが仏」なのでしょうか?
(「知らぬが仏」=知れば腹が立ったり悩んだりするようなことでも、知らなければ平静な心でいられるということの例。)
事実を見ようとせずに、一生知らない方が良いのか?
つまり、成長もせず、前進もせず、気づきも得ず、学びもせず、新しいことを知らずに、自分が絶対的に正しいと思いこみながら、死ぬ方が良い?
まぁ、そう決めて、それをまっとうできる人は、その方が幸せなのかも知れません。
ただ、大半の人間は、そんな偏見だらけの偏屈な仙人にはなれません。
日々、何処かしらか情報が入って来て、日々、気づいているはずです。
そうすれば、「気づき」を得られるチャンスがある(=成長できる)とともに、自分の過ちに気づかされる機会もあります。
もし、何かのきっかけで、自分がおかした重大な過ち気づいてしまったら?
やはりそこから、何を学び、どう反省すべきか、悩み考え行動することが、本当の「成長」なのでは?と思うんです。
過去の行動(過ちも含めて)を、全て受け入れる覚悟とリスクを意識して、それでもまだまだ気づいていない「新発見」を探す旅を続けたいものです。
今回の珍言爆言
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知らぬが仏と遮断することが、一番「仏」から遠ざける。
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