よく「金持ちは悪人」「貧乏人は心が綺麗」、そこから派生して「幸せな金持ちになろう」とか「お金を清く使おう」とかいうようなことを言う人がいます。
この間「清貧(せいひん)」という言葉の意味を調べていて、そういう内容を述べていた人がいたので、ちょっと考えていました。
何度も言っておりますが、私なりに「お金」についての解釈は結論はついてますので、超簡単に申しますと・・・。
「お金」の有無と、「善悪」や「幸不幸」の軸は関係ない。ということです。(キッパリ)
お金持ちで善人もいるし、悪人もいるし、貧乏でも善人もいるし、悪人もいる。
お金持ちで幸せに生きている人もいるし、不幸せな人もいるし、貧乏で幸せに生きている人もいるし、不幸せな人もいます。
私の結論は、「お金」はツール(道具)ですからね、例えば、道具といえば鉛筆という書く道具と同じ。
鉛筆をたくさん持っていて、善人もいるし、悪人もいるでしょう。幸せな人もいるし、不幸せな人もいるでしょう。
そう、どうやって(お金というツールを)使うか?が大事ってことです。
むしろ「お金の」有る無しよりも、「知識」の有る無しの方が、「善悪」や「幸不幸」と関係しているという説もあります。(この話は、また別の機会に)
つまり「幸せでも貧乏よりは幸せなお金持ちになりたくないですか?」ということを、私なりに言い換えると「この壺を買わないと不幸になりますよ」と同じということです。
ま、その手のいつもの話は置いておきまして、「清貧(せいひん)」という言葉の意味を間違えてないかなぁと思って調べていたんです。
辞書では、せい‐ひん【清貧】=「貧乏だが、心が清らかで行ないが潔白であること。余分を求めず、貧乏に安んじていること。」(精選版 日本国語大辞典)という説明がされています。
けど違和感を感じるのは、人類の歴史というのは、ほとんどの地域で、つい最近まで、ずっと「貧乏」でした。
だから、「余分を求めず、貧乏に安んじていること。」って、できなかったんです。
ほとんどの人が一生懸命働いて日々頑張っても、ずっと「貧乏」で、どうしようもなかったんです。
おそらく、「余分を求めず、貧乏に安んじていること。」ができるようになったのは、大量生産が可能になったここ100年くらいのこと。しかも、一部の地域でのみです。
まだ世界規模で考えれば、大半の人が一生懸命働いて日々頑張っても、「貧乏」な状態ですから。
だから、この「余分を求めず、貧乏に安んじていること。」という「清貧(せいひん)」という言葉の意味に、私は違和感を持っているんです。
むしろ私は、この「清貧(せいひん)」=心が清らかで、経済的な富を求めない存在として、武士・サムライの存在を思い出しました。(今、武士道のことを研究しているせいもあるかと思いますが。)
武士にとって大事な信条は「義」や「忠」です。
国を良くしょうとする大義(つまり大名)にどれだけ忠誠を尽くすかということが大切なんです。
そのために己の命さえも燃やしながら生きるのが侍(サムライ)ですね。
だから、一般の大衆は武士に一目を置いていたし、彼らを支える社会制度を構築していた。
自らの私利私欲を極端にまで排除し、経済的には質素な生活をしていても、武士の魂(生き方)を清いと感じていたのではないかと思うんです。
そこから派生して、物質的に質素な状態でも心が清く生きているなら(尊敬に値する武士がそうなのだから)悪くないよ。という意味で使われ出したのではないかな?
これが、「清貧(せいひん)」の意味の私の推論です。(完璧には調べ切れていません。)
いずれにしても、辞書に書いてあることさえ疑いにかかると、時間がどんどん足りなくなって、仕事も手につかず、どんどん貧乏になっていくことだけは分かりました。
せめて、私も心だけは清く生きていきたいと切に願う今日このごろです。
今回の珍言爆言
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貧すれば鈍するではなく、貧すれど清する生き方をしよう。
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