バスで船岡山に着く手前で宮内庁の看板があったので、何かなぁと思って寄ってみました。
目次
創建
媞子内親王は、永長元年(1096年)8月7日、六条殿(跡地下京区)で21歳で病死し、その遺骸は、8月16日の夕方、船岡の北で火葬された後、上醍醐(現伏見区)の円光院に埋葬されたとのことです。
白河天皇とラブラブだった中宮藤原賢子の娘さん。妻の藤原賢子が亡くなった後、伊勢にお勤めしていた娘の媞子内親王を呼び戻した白河天皇。
めっちゃラブリーだった媞子内親王を溺愛していた白河天皇ですが、その媞子内親王も21歳の若さで亡くなります。
可哀想ですね。その媞子内親王を火葬したのがこの近くだそうです。
溺愛していた娘が亡くなった後、はっちゃけた?白河天皇
この後、白河天皇は「院政」というシステムを確立して、政治的実権を持ちつつ、自分は女性(男性も)関係を持ちまくったそう。
溺愛していた媞子内親王をわかくし亡くしたショックから人生観が変わったのでしょうか。
そんなことを考えながら、ちょっと感慨深く歴史を感じておりました。
媞子内親王火葬塚の場所
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