蛇やワニなどの肉食動物や、ゴキブリといった虫に遭遇したら、びっくりして激しく反応しませんか?
あるいは、虫は大丈夫だけどネズミはダメ、とか、蛇は大丈夫だけど虫には弱いという人もいますね。
これって、「こういう生物に出会ったら命の危険があるので逃げなさい」という情報が遺伝子に組み込まれているからだと思います。
我々のご先祖様、ひょっとしたらリスのような小動物だった時代? あるいはもっと昔の魚だったような時代から「逃げろ、命が危ない」という情報が遺伝子に刻まれ、縷縷と引き継いできた証拠なのでしょう。
だけど、不思議なのは、もし他の動物に食べられて死んでしまったら、その個体は遺伝子を残すことが出来なかったはず。
他の動物に食べられかけて生き残った個体が、無事に遺伝子に残すことができたのか?
それとも、仲間の一人が他の動物に食べられるのを見たり感じたりして、「この動物は危険だ」という情報を生き残った個体に残していったのか?
なんか不思議ですよね。
そう考えると、「火」は、動物にとっては超危険なものです。
だけど、人間は火を使いこなすことによって、文明を発展させてきました。
「これ本当は危険だけど、理屈がわかれば、危険を最小限にして使えるわ」ということです。
古い脳に刻まれた情報=本能では、危険なことでも、新しい脳に蓄積した情報=知識を使いこなすことで、危険を回避することができるようになった。
つまり人間は、知識を使うことによって、本能をコントロールできるということです。
一方、その知識の使い方を間違えたり、わざと暴走させたりすると、大きな災難に見舞われることもあります。
はい、ここまでは常識的なことなので、理解しやすいと思います。
では、私の最大のテーマである「幸せ」について。
「幸せ」(を感じる)というのは、本能の部分なのか、知識の部分なのか、あるいはその両方なのか、さてどっちなのでしょう?
もし本能の部分なのであれば、知識の部分の力を減らす、無くす、制御することが「幸せ」を感じることになります。
逆に知識の部分なのであれば、本能の部分の力を減らす、無くす、制御することが「幸せ」を感じることになります。
あるいは、「幸せ」というのは、本能と知識の両方で、程よくバランスを取ることで感じることになるものなのか?
最近、そんなことを考えているんです。
先日のトピックで、「他人が幸せに生きるにはどうすれば良いだろう?」考えながら生きられることが、本当の幸せだとお伝えしました。
他人の幸せを願うことは、本能なのか、知識なのか、はたまたその二つのバランスなのか?
「赤ちゃんを世話するお母さんが最も幸福」理論でいくと、本能の方がより関係してそうですよね。
けど、本能だけで行動すると、人間社会ではとんでもない状態になります。
例えば、私みたいにね!(笑)
本能むき出しでエロエロ人生を送っていると、ロクな人生を送れません。
むしろお猿さんです。ウキキィー!!⊂*1⊃
ということで、人間には、古い脳に刻まれた情報=本能と、新しい脳に蓄積した情報=知識というのがあって、それをコントロールしているという事実を知った上で、何が幸せなのか考えてみようと思っているんです。
これからも幸せ探求の旅は続きます。
どうぞ、お付き合いのほど、よろしくお願い致します。
今回の珍言爆言
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幸せは本能なのか、知識なのかと悩める幸せを噛みしめる
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