ちょっと思うことがあって、今回は「ロック」の話について。
私は、「ロック」が好きだ。
音楽としての純粋な「ロック」も好きだし、文化的な「ロック」なモノ(生き方・考え方)も好きだ。
本質的な「ロック」とはかけ離れた日本的な「ロック」も、それはそれで悪くないし否定しようとは思わない。
「ロック」の本質とは何か?という質問に対して、「反抗的」「反骨的」「反体制的」「(不良の)若者の文化」と定義づけるのも、ある程度は間違えてはないと思う。(そういうエネルギーのうねりがあるのは事実だから・・・)
それでも、「ロック」や、そのベースとなった「ブラック・ミュージック」も、もっといえば「ジャズ」も、日本人の私には「(永遠の)憧れ」であっても、永遠に「理解」は出来ないだろう。
なぜなら、それらの音楽や文化は、果てしない差別から生まれてきた背景があるから。
奴隷として異国に地に運ばれて、そこで単純労働を一生続けないと生きていけなかった人たちが、唯一の慰めとして歌を歌うことで、その日の疲れを癒していた。
そんな、絶対的な身分制度に基づく果てしない差別が、ここ日本には無かったから、私には「ロック」は憧れであっても、決して安易に「理解」できるものではない。
こんな感じで、本質的な「ロック」論を、日本人のオヤジが呟いても、共感されないんだろうなぁ。
とお気に入りの「ロック」を聴きながら、日本のことを異国の地から憂いている。
本気で「ロック」したいのなら、そんなちっぽけなものに反抗してないで、目を見開いて、戦いを挑むべき相手を見極めないといけない。
せめて「人生はロッケンロー♪ シェキナベイベー♪」と、ほざく迷惑ジジイにはならないようにしないといけない。
今回の珍言爆言
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ロッケンローは人生ではない。だから私はロックが好きだ。
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